建築のシンギュラリティ(特異点)をめざして
2017年11月28日、浜松にて静岡理工科大学主催の「地域創成フォーラム」という産官学連携をめざすシンポジウムが開かれた。以下はその分科会における講演の原稿である。
「建築のシンギュラリティをめざして」
過日、建築学会の大会で広島を訪れ、いくつかのパネル・ディスカッションを聴講する機会を得た。その中で興味深く拝聴したのは広島大学の杉本俊多先生の建築のデザイン思潮の120年周期説だった。杉本先生は「フィールドとしての「西洋」を問う」と題されたパネル・ディスカッションでパネリストの1人として「グローバル化の時代の様式史研究」と題されてお話しされたのであるが、120年周期説はそのなかの一節である。杉本先生には個人的には面識がなかったが、バウハウスに関する著作を通じて、お名前は存じ上げていた。カール・フリードリッヒ・シンケルの研究などで知られるドイツ建築史の第一人者であられる。
杉本先生は18世紀から今日に至る建築の歴史を俯瞰すると、キーとなる年は共和制への都市的な革命が各地で起こった1848年(欧州動乱)とパリ5月革命が世界の大都市に波及した1968年であるという。シンケルのアルテス・ムゼアムの完成が1828年であるから、18世紀末から19世紀の前半にかけて、建築思潮的には新古典主義全盛の時代である。19世紀も後半になると、ゴシック・リバイバルを経て装飾過多のアール・ヌーボーに至るロマン主義の時代となる。
古典主義(クラシック)とは、一口で言えば、パルテノン神殿に代表されるギリシャ建築に建築の規範を求める志向である。それに対してゴシック建築とはシャルトルやランスの大聖堂のようなキリスト教に根差した建築様式を指している。ヨーロッパの建築の歴史は、クラシックvsゴシック、あるいはギリシャ的(プラトン的)なるものvsキリスト教的なるもの、この2つの思潮のせめぎあいとして語られることが多い。杉本先生は後者を求める指向をロマン主義と呼んでいる。そして、19世紀後半のロマン主義は20世紀初頭に、その頂点に達したとき崩壊して、近代建築(モダニズム)にとって代わられる。
ル・コルビュジェが「建築をめざして」を発表してプラトン立体(立方体や球などの純粋立体)による設計手法を説いたのが1922年、サヴォア邸の設計は1929年である。そのコルビュジェも1955年にはロンシャンの礼拝堂で有機的な形態を追求している。プラトン主義からロマン主義への転向と理解される。
磯崎新のプラトン主義は1975年の群馬県立近代美術館でその頂点を迎えるが、その後1983年の筑波センタービルは歴史主義的な様相を強め、ポスト・モダン建築の代表作とされている。これもプラトン主義からロマン主義への転向と理解される。
私が磯崎アトリエに入社したのは1985年、その後、多くのプロジェクトに関わってきたが、私の興味はコンピュータを使って新しいデザイン言語を開発することに注がれた。私が入社して数年後には磯崎アトリエにコンピュータが導入されたが、そのコンピュータを使った設計は、従来の手書きの作図による設計を大きく変革する可能性を秘めていた。作図可能性の探求が新しいデザイン言語を生む。扱える幾何学の対象が拡張され、それまでのプラトン立体の呪縛から解放された気分になった。
こうして1990年代以降の磯崎アトリエでは、有機的な、あるいは生物学的な形状のデザインが様々に試行されてゆくことになる。ここにはコルビュジェのロンシャンと相似の構造が見られるわけで、これもやはり、ロマン主義を突き詰めてゆく動きであると理解できるだろう。杉本先生はフランク・ゲーリーの1997年のビルバオ・グッゲンハイム美術館やザッハ・ハディッドの2012年の新国立競技場のデザインに現代のロマン主義をみてとっている。いずれも曲面を多用した有機的な造形が特徴である。
話を120年の周期説に戻そう。杉本先生は古典主義vsロマン主義の盛衰を120年周期のサイン・カーブに見立ててとらえている。例えば、18世紀末に勃興した古典主義は60年後の19世紀中葉で最高潮に達する。以後60年間は衰退の道を歩むが、60年後の20世紀初頭に近代建築という形で古典主義が再び勃興する。19世紀中葉から20世紀初頭にかけて古典主義が衰退した時期には、ロマン主義が勃興し19世紀末のアール・ヌーボーという形で最盛期を迎えるわけだ。杉本先生はこの120年周期の様式変化を崩壊->再生->転生->爛熟という4段階に整理して説明されている。サイン・カーブの横軸は時間軸であるが、縦軸は古典主義<->ロマン主義というベクトルの強度を示している。さらに古典主義=単純、ロマン主義=複雑、とも示されている。つまり縦軸はシステムの複雑さの度合いを示している。
この流れでゆくと2017年の現在はどのような時代としてとらえられるのだろうか。近代建築という古典主義は20世紀初頭に勃興し、1968年前後に最盛期を迎え、以降衰退の道を歩み、60年後の2028年ごろ新たな古典主義が復活をとげることになる。1968年以降、ポスト・モダンと呼ばれる期間はロマン主義の勃興期にあたり、2017年の現在はロマン主義の成長期に位置すると理解されるのだろうか。ロマン主義は2028年ごろに最高潮を迎え、そして崩壊する。そして、まだ見ぬ新たな古典主義が芽生えてゆく。言ってみれば、21世紀の古典主義の復興=ルネサンスであろうか。このシナリオにたてば、私自身の建築的なキャリアは1980年代から現在に至るまで、ロマン主義の成長に向かい合ってきたことになる。ロマン主義の成長とは古典主義の衰退と同義である。それは同時に複雑性へのベクトルの強度を増すことでもある。
奇しくもこれと同じく今から10年後の2028年ごろ、建築の分野ではないが、技術的、社会的、文化的に大きなブレイクスルーが起きると予測する科学者がいる。人工知能の世界的権威で、グーグル社で技術ディレクターを務めていたレイ・カーツワイルだ。彼は「心の社会」などの著作で人工知能の父と呼ばれるマービン・ミンスキーの弟子にあたる。コンピュータの性能は年々指数関数的に増大している。指数関数的な例の一つとしてカーツワイルがあげているのが、人の遺伝子の塩基配列をすべて解析する「ヒトゲノム計画」だ。最初の7年でヒトゲノムの1%の解析が終わった。1%の解析に7年掛かったのだから、100%解析するには700年掛かると言われていた。ところが毎年2倍ずつ結果が伸びてゆくので100%達成するには7年あればよい。そして実際そうなった。カーツワイルに言わせれば、1%終了したということは半分終わったということで、完成が近いということになる。これが指数関数的な成長の一例である。カーツワイルはコンピュータがすべての分野で人間がすることを超えるのは2029年だと予測している。コンピュータが人間の知能を凌駕するわけで、彼はこれをシンギュラリティ(特異点)とよんでいる。考えてみれば、スマートフォンはいまでは体の一部である。夜はベッドの脇で充電しているし、日中は肌身離さず持ち歩いている。電話ができるだけでなく、インターネットを通じて調べ物をすることができる。スマートフォンを通じて全世界の知識に接続している。スマートフォンというデバイスを通して、私自身の前頭葉が拡張したとも言えるわけだ。カーツワイルはコンピュータはどんどん小さくなって人間の体の中に入って行くという。ガンやレトロウイルスなどわれわれの自然免疫系が役に立たないものに対して、体の中のナノ・コンピュータが免疫力を拡張するという。それによって人の寿命が延びてゆく。さらなる長寿社会が出現する。人間がどんどんアンドロイドに近づいてゆく。彼はそれをポスト・ヒューマンと呼んでいる。彼は、そのようなポスト・ヒューマンの時代が2045年までにやってくると予測している。
ところで、建築のデザインはコンピュータと違って成熟した文化であるから、一方的に右肩上がりの指数関数的な成長というのは望めない。三角関数のように盛衰を繰り返す。しかし、極点が存在することは事実だ。それはシンギュラリティ(特異点)と呼ぶこともできるだろう。建築のシンギュラリティはテクノロジーのシンギュラリティと同じく2029年頃と予測されている。それに向けて我々にできることはポスト・モダンという名のロマン主義を、頂点めざして加速することなのであろうか。つまり、複雑性の頂点を極めることなのであろうか。考えてみれば、過去の建築デザインのブレイクスルーは常にテクノロジーのブレイクスルーに裏打ちされていた。自動車や飛行機の発明が近代の都市計画を生んだし、郊外というライフスタイルも作り出した。サヴォア邸の地上階平面図における自動車の動線計画を考えれば、このことは自明であろう。自動車の発明によって可能になった郊外住宅の理想形を示しているとも言える。そして、現代のテクノロジーはコンピュータやAIの分野で指数関数的な成長の途上にある。1929年には、あらゆる分野で、コンピュータが人間の知能を凌駕すると予測されている。テクノロジーの次なるシンギュラリティは建築や都市計画に何をもたらすのであろうか。われわれは、そろそろポスト・ヒューマン社会に向けた建築設計のあり方を考えなければならない時期にさしかかっているのではないだろうか。