2024.10.17

修了文集:淡褐色の断片的な記憶と浅瀬の思考

photo:修士設計の敷地近辺 引佐の山

 

建築の本編は大学院に入ってからだよ 学部の4年間は目次みたいなもの。

 

非常勤の先生にこう言われたのは大学院に入ってから随分経ってからのこと。

これは北山さんに言われたとかなんとか、、

 

 

私は修士に上がる気もなく、学部四回生の時はただなんとなく設計をやりたいかな という気持ちでのらりくらりとインターンや就活を行っていた。気づいたら大学院へ入っていたわけではあるのだが2年間が楽しくて学としての喜びを感じ始めていた。故に学部の記憶があまりないのである。もっと言えば高校は部活の記憶のみ、中学も部活の記憶のみ、小学校の記憶なんてあまり残っていない。それくらいに修士に入ってからの生活がじっくりとしていて、何を見てもワクワクしていて学問としての好きを初めて感じていたと言えるのかもしれない(鮮やかな日々ではなかった)。ただ一番最近の記憶だから鮮明ってこともあるんでしょうけど、にしても良い人たちに出会えて、良い時間を過ごせたなと社会に出てつくづく感じています。

 

今回のこのブログの主題は「修士論文・設計を終えて」的なテーマが求められているのだろうが、そんな大学全体的なテーマを変化球の不完全燃焼設計で押し切った私の感想で終わらせても仕方がないので。せっかくなら大学院で感じていたこと、建築を今後やっていくことについて見直してみようかと思います。あまり参考にはならなそうなので先に謝っておきます。すみません。

論文と設計に関しては大学か研究室にデータがあるはずなので自由に見て、感想でも送りつけてください。スケジュールはしっかり組んで頑張りましょう。黄色はいいぞ!

 

 

最初に戻るのだが、目次で卒業すること これが決して悪いわけではない。「本編」をどこに持っていくのかは自由だと思うし別に院へ行かなくたって生活や学びが楽しければそれで良いと思う。だだ、私は目次があったから院を楽しめたのは事実。

これを読んでいる学部生がいるのなら2、3年生くらいまでには自分が建築が好きかどうかくらい判別して研究室配属でも気にし始めると良いのではないでしょうか。研究室選び、結構人生変わると思うのでそれなりにしっかり選んだ方が良いと思いますよ。(自分は何にも考えないで選んだとか言えない、 ちょっと文字小さくしておこう。)

これでもなんだかんだゼミ長みたいなことやっていたので自分の研究室に関しては理解しているし人より面倒が多かったと思います。何かあったら聞いてください。

院生はさっさと目標立てて就活なりインターンなり行った方が良いと思います。私の駄文読むよりコーヒー淹れて小説やら作品集でも読んでください。

 

それそれの内容は全く繋がりのない少し腐ったような色味の断片的な自分の記憶を見ている感じでさらっと見てください。それでは参ります。

 

 

 

モルモットとしての動き方

NASCAの八木さんには三回生の頃からお世話になっているが常々言われていたことがある。「上下の交流を作りなさい」「他大学と交流しなさい」とかなんとか、まだ他にもあった気がする。とりあえずこの二つは私が大学の中で誰よりも実現したと自分では思っている。いや絶対に、間違いない。

何故にこれを頑張ったかって? 圧倒的に先輩との関係が大きいからです。私たちは二期生。一つ上の先輩しかいなかったけれど多大なる恩恵を受けた。1、2期生なんて学科のモルモットみたいな立場でしかないんだから、なおさら先輩を大事にせないかんなと。それでも直接接点を持ち始めたのは研究室入ってからだったので短い時間でしたが、世話になれるもんはたくさんなっておこうと色々大学には落として行ってもらいましたね。先輩たちの背中というのはとても大きく、どこか超えられない大きな壁がありました。身体的には小柄な先輩ばっかりだったのに。(これも怒られるよな、すみません、、)

僕たちが配属した時はちょうど掛川の活動や「静岡建築未来学」が始まったばかりで何をやるにも右往左往していました。よくわからないままでかい模型を作って、みんなで怒られて、運営して、徹夜して、先輩のヘルプして、、うん、学部の時もなんやかんやと楽しかったですね。掛川も実際のめり込んで参加していた感覚はあまりありませんでした、B3の時はまさか自分が掛川に住むとは思ってもいませんでしからね、それが今や毎年PJとして成立して、街に何かを産み落としている思うと少しずつ認知や規模が大きくなっている気がします。少しは市や街に貢献できているのでしょうか。今後の展望も非常に楽しみです。

掛川の初期PJの落書き🍑

 

また、外部の友人との交流ですが、これはあった方がいいですよね。本当に友人が居てくれて良かった。静岡でノロノロと暖かい気候で自分よがりに生きていると自分が今どんな環境にいるのか、どの立場にいるのかわからないのです。初めての外部の友達は神戸にインターンに行った時に出会った子でした。ものすごく建築が好きな子で当時建築にのめり込んでいなかった僕は、すげえなあ、こういう人が建築家なるやで って思ってました。今は負けられんと思ってますよ。将来会えるのを楽しみにしてるねってバイバイしたの忘れんからな!

 

卒制が終わってからというもの外部の友人へ会いに関東・関西・九州いろんなところへ行った。いろんな大学に潜入したし、一緒に旅行に行ったり、コンペやったり、そうやって今自分がどんな環境にいるのかをやっと理解しました。かなり出遅れたな、やっべ、、って焦っていたM1です。正直修士の授業なんかそっちのけで(ちゃんとゼミとかコンペの予定の関係で)遊びに出掛けて、インプット期間とかこつけてサボってました。バタバタした感じがどこか学部の時より開放感があって自由度の高さに「大学生してる」と最も感じました。絶対に出遅れている。あと静岡なんて建築ガラパゴスなので外部から何か情報やらソフトやら持ち込まないと絶滅してしまうとも思い使い方教わったり笑

 

そんな感じでいたので先輩がしっかり揃っている今の学年はとても羨ましいわけですよ。だから残せるもんはできるだけ置いていってやろうという気持ちでした。

とはいえ、在学中に何か成し遂げたわけでもなく、後輩のために何かできたわけでもないとは思うのだが、先輩の論文やらポートフォリオやら適度に盗み見てじゃんじゃん吸い取ってもらえればと思います。

 

TAは好んでやっていたので自然と下級生との接点は増えた。三回生後期からからやらせていただいていたので結果的には全学年の後輩の面倒を見たことになる。全学年?おかしな話や。特にM2の時に見ていた当時の三回生、一回生は特に仲良くしてもらえた。大変ありがたい限りでございます。面倒を見ていた後輩の誰かが今後研究室に入ってくれたら万々歳。OB会でいつかお会いしましょう。

長谷川さんをコラージュしたB3の飲み会の写真(私はただのTA) とても懐かしい。なかなか馴染んでいる。

 

 

 

トレーシングペーパーを当てながら次のページをめくること

目次の4年間は、なんだかんだ楽しかったけれどもったいない時間を過ごしたといろんな後悔が募る。目の前のラクさ?安っぽくて安易な幸せみたいなものに簡単に手を伸ばしていたんだろうな。手にしてしまった時は嬉しくても後にはなーんにも残んないものよ。世間的な大学生活はろくに送ってないし、今でこそ酒は好きだけど、4年間で行った飲み会なんて数えるほどじゃないか?本来20歳で手に入るはずの酒という標準装備をうまく使いこなしていなかったがために今反動で酒にしか拠り所を感じていない。大人数の飲み会は苦手だし左端でポテトつまんでジンジャーエール飲んでる時間がもはや好きまでもあった。今でも大人がいるとか、知らない人ばっかりとか、8人以上とかの飲み会広げられるとひんってなって肩を狭めて背中が丸まってしまう。

それに比べて修士では世間的な大学生活を送っていたのでは。旅行にもたくさん行ったし友達の家に入り浸ってインターン生活したり、好きなことをバイトにしたり、飲み会も何度も行ってた。これ学部生からやってたらなんて楽しいんでしょうね。

 

さて、そんな前段はどうでもよくて、本編(大学院)に入って初回のゼミで田井さんに「一人一人今後の目標を述べよ」と言われ、各々の回答をしていた。私はなんやかんやと入ってきたのでそんな具体的な目標があるわけでもなくテキトーに「コンペやります。他大学の学生と遊んできます。」と答えた。少し調子に乗っていたのでしょう。とはいえ場渡的な答え方をした割に修士の生活のモチベーションを担っていたのは大体これな気がする。井戸から少しだけ顔を出した時、自分が見てた世界って狭いなあって強く感じた。働き始めて半年程経ちましたが今も常にそんな感じです。

2年間が楽しかったとは言いつつも、学部の頃から私だってねえ、何回も建築やめてやろうって感じでしたよ。特に学部の時なんて特別建築に興味なかったし、今だって体壊すくらいだったらさっさとやめてやろうって感じですよ。だってたくさん寝たいし常に楽して生きていたいんだもの。

それでもなんだかんだ建築好きだったんでしょうね、デザインすること?そんな大それたことはやっていない気もするけれど。でも私たちが線を引くってことは少しだけ地図を書き換えて、その土地や空間に時間価値を与えるってことなのだから、価値を重ねて構築されていくものに少しばかりの興味を持ってしまったんだから。けどそれからというもの物事は大概デザインされているのではないかと感じつつ、好きな音楽や文章、演技、演出、成長、空気の流れといった自発的なものから他律的なものまでよくできているなと感心するばかりです。だからこそ私たちは探求するのではないでしょうか。世界の美しいものに出会いたいから。

 

とは言っても私自身、アイデンティティや突出して得意なことがあるわけでもなく、リーダーシップがあるわけでもなく、なんなら自我を捨てて生きてきたようなものだった。強いて言えるアイデンティティは左利きってくらい。(しかも半分くらいは右使うとかいう似非サウスポー)

何をするにしても人に聞いたり困ったら先生や同期に相談していた。自分の意思が絶対的に合っていると思う自信がないからだ。論文のテーマなんかちっとも決まらずに色々困らせてしまっていたかもなあ、と振り返ります。昔からそんな感じで自身の意見を貫き通すみたいなことはできなくって、共感、反対はできても批評までは思考が回っていない。元々絵を描くのは好きだったけれど決まって模写。トレースや何かを見て真似をして描くのが好きだった。実際今でもそうだ。何かを模したりそれに対して上書きしてみたり。自分がイノベーションや発明、画期的な何かをできるとは思っていないのでちょこざいで、どこか小賢しいような作戦でいるのかもしれない。案外自分らしい。人生の教科書があるんだったらさっさと見せてもらってトレーシングペーパーを当てながら自分なりに書き足してやりたいのにな、と人生のページをめくっています。

なーんて泣き言言ってないでさっさと自律しろよと自分に言い聞かせてもいます。

 

そういう判断も悪くはないなと思いつつも、意外と自分の感情を押し殺しているのではないかというのも事実。建築という学、職能において、常にラディカルで社会や人間としての生を呼び起こしていく喜びも追求していきたいものだ。とりあえずは自身のわずかな建築の思考の上積みでもかき集めて仕事なりコンペなりなんでもいいから何かしらアウトプットに繋げたいと思う。まずは篠原さんの住宅でもトレースでもしようかな。

 

 

 

都市の骨格から建築の骨格へ

せっかくなので少しは論文にも紐づけたいと思います。

私達が生きる社会とはとても窮屈に感じる。社会どころではない、現代の住宅、あるいは公共、商業施設においてもどこか周辺や地域という文脈から外れ、フリースタンディングなものばかりが乱立している。これはやはり近代以降、技術の革新によって生み出された社会の副産物ではないだろうか。

綺麗で快適、室には必要以上の機能はない、というか機能を与えられた室が並ぶだけの外界から切り離された内部空間の均質化、他社よりも大きい方が良いとされるような単純な均質空間が積み位上げられる超高層。いわゆる「インターナショナルスタイル」の建築が立ち並び、どこにでもありふれたガラスの箱がショーケースのように並んでいるだけのつまらない都市風景が完成した。ジェネリックシティとはコールハースも粋な名前をつけたものだ。

 

新建築 住宅特集 2022年 12月号 p100

さらには何を建てようにもSDGsやら、持続可能性やら、環境性能評価などといったエネルギーやコストの制約が求められ、過剰な断熱による魔法瓶的な建築、さらには近年注目されるのは線や管と切り離したオフグリット住宅。不思議なことに外界との遮断をして豊かな生活を求めること、あるいは機械に頼り切ることで外界と繋がろうとするような方向にいっているのではないか。閉じようとしているのか開こうとしているのか、建築は、住宅はどんな方向へ向かっていくのか気になるところである。

違う意味になってしまうのだがこの機械の時代へ発展しすぎた今、改めてコルビュジエの「住宅は住むための機械である」が刺さってくるのではないか笑

このようにして社会全体や思考がどんどんと内向きの制約によって制度化された建築ばかり、つまらない建築ばかりになってしまうのではないか、ということを考えたいのだ。さらには増幅していく機能を補完するために次第に増えていくコンプレックスの大規模施設や地方都市のショッピングモールなど都市も地方もありゃしない超高層の次はこれか、、といった流れではないだろうか。

超高層時代(今もそうなのかもしれない)にはフリースタンディングの乱立にあたるのだが、一様にこれが道からの離脱にあるのだろう。原さんはいろんな意味を持って、きたる次の時代に向けて放った「超高層の外へ出たほうがいいんじゃないか」という言葉を残したのだろう。これから来る(もう来ている?)超都市の時代に何を考えて生きていこうか。

 

修士論文を書きながら昨年、京都 北山邸に伺い、そのまとめを道に絡めて批評文を書いていたので少し引用して繋げます。*1

京都市の市街地は、今もなお、平安京以来の碁盤目状の都市構造を特徴としている。そうでありながら、1200年の間に都市のかたちは時代の変遷とともにその姿を変えている。初期平安京時代から残る碁盤目はグリッド線:道によって大きく区画されている。その中にヴォイドや広場のようなものは発展してこなかった。これは道によって都市が形成されてきたことを示唆している。ヨーロッパは教会と広場、そこに接続するための路地によって骨格が形成されている。人々は広場に集まって談笑したりマーケットやお祭りが開かれたり、、 広場が集いの場であり、それを中心として都市が成り立っているのだ。
一方、日本:京都は広場のようなものは設けられず、東西南北綺麗な碁盤目が引かれ、「烏丸小路」「室町小路」「町尻小路」といった主軸の通りの発達、それに付随する路地によって骨格が生まれている。生業が通りに沿って、通りに向かって並び、祭りは通りを縫うようにして練り歩くようにできている。
「街の中を貫くその小路は、交通のための道路としてよりも、人々の毎日の生活空間としての意味を持っていたのである。」 道の建築ー中間領域へー 黒川紀章

https://architecture.sist.ac.jp/tai-mikio/blog/タイポロジーハウス*1

 

何も京都に限った話ではない。掛川だって、東京だってそうだ。日本の祭りの多くは街を練り歩くことが一般化されている。これは参道や奉納にも起因していると考えられ、大名行列なんかは顕著に示されているのではないだろうか。黒川が述べているように、東洋の都市がプライベートな空間と空間を繋いでいる社会的な空間、アソシエーションの空間としての道であることを示した。そのような多義的な空間としての道というのはどうやら閾・thresholdに結びつく、人間のアクティビティのアフォードを許容する空間になるだろう。

 

私の育った街は街道の宿場町であった、大学時代は東海道への関係は避けては通れなかった。その道は絶対的に象徴されていた。街道の街頭や、松の植木も、商店も道に沿って、道に向かっている。やはり道というのは人間の活動帯にあるのではないだろうか。道での振る舞いは次第に建築へと導かれ、経験が連続的になっていくのだ。改めて混成系となる建築の在り方に問いを与えるのは道にありそうだ。

引用:掛川市  歌川広重「東海道五十三次・日坂」

https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/kanko/docs/13039.html

 

道や地域から切り離された建築ではない。道から進化した建築なるものを目指したい。それは都市の骨格から建築の骨格へと導かれるものだと信じている。

青木さんがかつて論考で記していた「全ての建築は道から進化した」この一言にとても支えられています。

修士 道沿いの建築

 

僕たちの住む街、東京は意外と夜の帰り道に星空が見えました。喜ばしい。

 

 

 

少年であること

良くも悪くも「建築少年だね」と何度か言われてきた。別に悪いことではないかもしれない。最近になっても言われている。

「お前絶対これ好きじゃん」て勧められるの本当に嬉しい。これは建築少年6年間の有田の性癖みたいなやつ。少し貼っておきます。(順不同、適当に貼ってます。)

これが好き!みたいなの結構はっきりしてますね。多分ジョイントと、影と色が好きだと思う。

 

良い空間に入った時、体感した時、どうしても撫でたくなったり見上げたり、ぐるぐる歩き回ったりしている。大吹き抜けとか未だにワクワクする。

私はコミュニティとかがどうも苦手で考えることも入り込むのも少し慄いてしまう。今研究室で動いている「履き物屋プロジェクト」*2のエスキスの時はわかりやすすぎて笑ってしまった。コミュニティや運用方法の関して無頓着すぎて少々注意があった。「空間構成も古い」と言われた。だからこそ、第三者的な立場で居たいのかもしれない。(苦手な場面から逃げているだけなんですけどね、、、)

 

  【告知】 松浦履物店プロジェクト展 開催!! post date. 2024.05.04 from.blog    *2

 

こちらも同じく、過去をなぞっているだけではいけないなと。建築という職能が新たな方向へ昇華しようとしている今が変わり目にいるのではないかとすら感じる。些か気持ち悪いのだが、実際空間の話だけしていればいいという時代はほぼ終焉を迎えている。

正直今後どんな建築家像であるかなんて見据えてもいないし興味もない。将来はめっちゃくちゃコミュニティとか地域とか言っているかもしれない。将来やってみたいこともできたのだが実際建築的ではない気もしていてどんなスタンスで生きていくか悩ましいものだ。1期生の金子さんと駄弁る時間作らないといかんな、これは。金子さん、連絡お待ちしてます。

 

ただ、自分が感じてきたあの空間に対するときめきを絶対に忘れてはならないと思うし、良い空間に出会えばニヤニヤしながら壁をなぞって歩き回っていたい、声をあげてすげえと呟いちゃいたいものです。また今度、自分の根源にある建築を見に行こうと思う。どんな気持ちで見れるのか、あの時とは違った感覚でいれるのか。たぶんトップライトを見上げて、いい構造だなあってなるんでしょうけど笑

 

そんな建築少年を生涯続けていたい。とりあえずは今日も目の前の仕事に向かいます。

 

 

 

 

そんな奴もいたなって、思い出してもらえると幸いです。研究室の今後の発展を願って田井さんの鯛の大漁旗でも貼っておきます。

また会いましょう。

 

 

建築学科二期生 有田晃己