2023.09.13 タイポロジーハウス
烏丸御池のタイポロジーハウス
決定ルールと空間の自律について
Tokyo to Kyoto
北山恒は「都市のエージェントはだれなのか」において、取り上げられる各都市が時代の牽引国であったことを尊重しそれぞれの時代を担う“エージェント”を示した。
中でも今回の「京都」という主題と結びつけるのは 日本:東京 である。
日本:東京は近代化に伴い、空襲や災害によって代謝してきたのだ。都市としての骨格は変わらずに近代化を進めてきた。北山は近代化を「社会システムと産業構造のヨーロッパ文明化」と称している。
日本都市が江戸:東京を中心としてから
1923年 関東大震災 消失・再生
1945年 東京大空襲 木造密集地域化
高度経済成長期 スクラップアンドビルド 長期的な都市破壊
といったように短いスパンで破壊と構築を繰り返してきたのである。破壊されるたびに都市構造を変化させ、徐々に徐々に近代化へと足を進め、その度に複雑な都市レイヤーは重ねられていった。
西洋が組積造で長い歴史を持った空間あるいは都市構造で在ることと比べ日本は木の軸組が主流である。建築の構造的な問題と日本国の立地、社会的な歴史背景を辿るとどうも生成変化していくことに順応しているのではないかとも考えられる。
代謝する建築・都市
メタボリズムはモダニズムから脱しようとする建築運動の一つとして日本から始まったことは言うまでもない。建築が生成変化する、新陳代謝して長らく生き続けると言う思想は一つのロマンであり永久性を望むことは東洋的なのであろう。
日本の古来の歴史に振り返れば、伊勢神宮は式年遷宮で20年に一度建て替えられる。これもまたメタボライズすることの一つなのではないだろうか。
元々の神宮は今ほど大規模ではなく、お祭りごとに神を仰ぎまつる「神籬」や「祠」と呼ばれる仮設的な祭場を設けて、天照大御神をお祀りしていた。
祠が宮へと大規模に改められたのは、今から1300年前、天武天皇が発意され、次の持統天皇4年(690)に内宮、同6年(692)に外宮で初めて行われた遷宮の頃である。
2013年に62回目の遷宮が行われ、我々の生きる現在にも代謝し続けているのだ。
fig.2 式年遷宮
式年遷宮の代謝、日本の構造的代謝、社会的背景による代謝 これらを踏まえて日本:東京が短いスパンで代謝していくことの優位性に立っていることがわかる。
しかし、これまでに都市の代謝を繰り返してきた結果、都心部では均質空間、いわゆる「インターナショナルスタイル」の建築が立ち並び、どこにでもありふれたガラスの箱がショーケースのように並んでいるだけのつまらない都市風景が完成したのである。
これがレム・コールハースのいうジェネリックシティである。
東京は資本運動の結果に近代化→現代化:ジェネリックシティへの変化を遂げた。それは非常にチープでどこにでも存在しうる可能性を飄々と醸し出している。それはまるでコンビニエンスストアのように。
今日の日本では様々な都市が同時に発展している。同時に同じような都市として同じような代謝が起きることも示されるのではないだろうか。綺麗な物好き、新しい物好きの日本人にとって最もらしい答えあとすら感じる。歴史のない、チープで綺麗なコンビニ群。
日本では古い街の景観条例がかなり施されている。形態、視覚的に自然と発展してきたものを利己的にあるいは意識的に決定ルールを持ち出して保全しようとすることに些か疑問は感じられるが。
そのような都市、日本の中でも京都は東京のように自然災害や戦争でも痛手はなく古くからの伝統・コンテクストが残され続けてきた。都市構造の近代化からは逸脱されているとも捉えられるのではないだろうか。
京の都市:道
少し話が飛躍するが、京都の道について考えてみよう。
fig.3.4.5 現代の京都 室町時代の京都 平安京の京都
https://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000116/116792/1_3_1.pdf
京都市の市街地は、今もなお、平安京以来の碁盤目状の都市構造を特徴としている。そうでありながら、1200年の間に都市のかたちは時代の変遷とともにその姿を変えている。
初期平安京時代から残る碁盤目はグリッド線:道によって大きく区画されている。その中にヴォイドや広場のようなものは発展してこなかった。これは道によって都市が形成されてきたことを示唆している。
ヨーロッパは教会と広場、そこに接続するための路地によって骨格が形成されている。人々は広場に集まって談笑したりマーケットやお祭りが開かれたり、、 広場が集いの場であり、それを中心として都市が成り立っているのだ。
一方、日本:京都は広場のようなものは設けられず、東西南北綺麗な碁盤目が引かれ、「烏丸小路」「室町小路」「町尻小路」といった主軸の通りの発達、それに付随する路地によって骨格が生まれている。生業が通りに沿って、通りに向かって並び、祭りは通りを縫うようにして練り歩くようにできている。
「街の中を貫くその小路は、交通のための道路としてよりも、人々の毎日の生活空間としての意味を持っていたのである。」 道の建築ー中間領域へー 黒川紀章
黒川はこのように述べ、東洋の都市がプライベートな空間と空間を繋いでいる社会的な空間、アソシエーションの空間で道であることを示した。
日本は昔から「広場がない」と言われ、現代でもそれを課題として都市に広場を作る事業も多く見られる。しかし異常を踏まえると日本は、道によって都市が発展してきたと捉えることができるのではなかろうか。これは一つの都市構造の在り方として指し示すことができるだろう。
タイポロジーハウス yからoへ
fig.7
このような都市背景の「京都」に建つ、タイポロジーを所有した建築である。
「タイポロジーハウス」というのだから北山の解釈による京町家のタイポロジーが反映された建築である。
見せていただいた京町家のタイポロジーにはどれもトオリニワが存在する。fig.7
北山も「あと半間あれば、、」のように何度も口に出していたように感じる。敷地の二重旗竿や半間足りない、一階と二階で間口が異なるなど京町家の中でも少し特殊条件にあったように見える。
fig.8
減築→タイポロジーに還元=形式を取り戻す
こうして得られた空間の形式に、どこまで思想をぶつけるのか、タイポロジーや建築の痕跡の発掘作業のぶつかり合いなのだろう。
先に述べたように、京都は道によって構造化された都市なのだ。道から抜けるような通り庭や続き間といったトンネルのような空間が特徴となっている。
タイポロジーハウスもこの構成で一階の抜け空間を実現しているのだ。失礼を恐れずに言えば、これは「擬似的に作られた通り庭」ではないのだろうか。空間に対しても北山は「トンネルのような空間」と述べており、前庭から奥庭まで象徴的に抜けを生み出している。通り庭は存在しないのに、だ。
日本の空間として靴を脱ぐことは間違いなく起きるわけだが、床のレベルもかなり低い。庭に対してほとんどレベルが変わらず、地面を歩いているかのように奥の庭へと向かわせる。fig.9
fig.9
これは一階の居間が両側の庭を他律的に捉えたが故に空間として自律を意味しているのではないだろうか。この時の「自律」はフリースタンディングオブジェクトなのではなく、他者によって決定づけられた「自律」である。
論考で述べられた「『意思決定が外在化される』ことについて」に合わせるならばここでのタイポロジーは決定ルールの補助線に過ぎないのだ。だからこそ「庭」が前後に現れた時に発生する決定ルールには自ずと「抜け空間」が浮かび上がる。
しかしそれは、本来の京町家のタイポロジー(トオリニワ)があっての決定ルールであること、それを代用的に用いられたこの空間はトポロジー(擬似的トオリドマ)というように読み替えることができないだろうか。
建築全体を踏まえた批評にしたかったが時間の関係でここまでにさせていただく。
モダニストの北山恒が京都のタイポロジーに触れた今、今後の彼にどのようなタイポロジーの読み取りが与えられるのか。その時の建築の主題はどこにあるのだろうか。
北山さん、お忙しいところ、大勢での見学を快く受け入れてくださり、丁寧な解説もして頂き、誠にありがとうございました。
田井幹夫研究室 M2 有田晃己