建築概論「都市のマトリックスを設計する」
前回の建築概論では「屋根を掛ける」と題して、建物の作り方、言い換えれば、シェルターの作り方について概説した。今回は「都市」について考察してみよう。建築がたくさん集まれば村になり町になり都市になる。しかし、都市には単なる建築の集積以上のものがある。それは何だろうか。
建築史家シビル・モホリ・ナギ(Sibyl Moholy-Nagy, 1903-1971)の大著「都市と人間の歴史」は古今東西の様々な都市の図像的パターンを分析している。その書の原題はMatrix of Manである。Matrixの語源はmother(母)だという。母は母体や胎盤に通じる。だからMatrix of Manを直訳すれば「人類の母体」となるだろう。シビル・モホリ・ナギはその著作の中で都市こそが人類の母体なのだと主張しているのである。
ところでSF映画のMatrixを観たことがあるだろうか。映画「2001年宇宙の旅」のテーマが人間とコンピュータの争いであったように、映画Matrixの主題も人間と電脳の争いである。映画Matrixでは全宇宙を雲のように覆い、すべてを支配する電脳のシステムのようなものがあって、それをMatrixと呼んでいる。そして人類とMatrixが争う。人類はMatrixからの攻撃から身を守るために、円筒状の未来都市Zionの中に閉じこもる。未来の集合住宅はあたかも巨大な円筒の内側にハチの巣が張り付いたような構成だ。そして、Matrixを作ったのはarchitect(建築家)なのか、それとも神なのか、というのが映画の主題なのである。ここで注意すべきは、未来都市Zionを作ったのは建築家かなのかどうかと、問われているわけではないことである。あくまでMatrixを作ったのは建築家なのかと問われているのである。
具体的には「Bazaar方式の都市計画をめざして」で論じたが、都市こそがMatrixであり、Matrixを設計することも、われわれ建築家の仕事なのである。この場合のMatrixは建築の母体であって、建築が建ち上がる基盤、つまり大地でありインフラストラクチャーである。
私は今から35年前、大学院を修了するとオーストラリアのメルボルン大学に1年滞在した。そこでメルボルンという都市の歴史的な形成やヴィクトリア時代のアイアン・レース(鋳鉄の装飾)が都市景観の形成の中で果たした役割り、などを考察した。図は1880年代のメルボルンを描いた鳥観図。メルボルンの博物館の玄関に飾ってあった絵を写真に撮ったものだ。当時は、デジタルカメラなどない時代である。メルボルン大学の建築学科には暗室があった。学生はカメラで写真を撮ると、暗室にこもって自分で現像するのが習わしだった。もちろんモノクロの銀塩写真である。その頃、ワードプロセッサーはまだ希少な存在で、ワープロが数台置かれたガラス張りの特別な部屋で院生たちは論文を書いていた。タイプライターしか見たことがなかった私は、タイプライターとどこが違うのかと怪訝に思った。日本に戻って数年後にワードプロセッサーが設計事務所に入ってきた。さらに1~2年経って、設計事務所にパーソナル・コンピュータとCADが入ってきた。ようやく私はワープロとは機能をワードプロセシング機能に限定したコンピュータのことなのだと理解した。さらに数年後、複数のコンピュータがネットワークでつながるようになったとき、ルーターとはルーティング機能しかもたないコンピュータのことであることを理解した。
18世紀末、メルボルンに最初に入植した人たちはヤラ川のほとりに4×8コマの碁盤状の街区を設定した。それは1辺10 chains(201.16m)の正方形のグリッドである。chainは測量の単位で1 chain = 66フィート、80 chains = 1マイルである。4×8コマの街区の全体形は46 chains x 92 chains = 925m x 1850mの長方形の領域となる。1880年代には、この街区の上にアイアン・レースで飾られた2階建てのタウン・ハウスが立ち並んでいたことであろう。その後、自動車交通の発達に伴って都市は無限に拡張してゆく。「郊外」というライフ・スタイルが確立してゆく。現在では、この当初の4×8コマの領域は高層ビルが立ち並び中心地区が形成されている。シティあるいはCBD(セントラル・ビジネス・ディストリクト)と呼ばれる。アメリカならダウンタウンと呼ばれるエリアである。
考えてみると、数学で「行列」のことをMatrixという。Matrixは母体のことだと述べたが、なぜ行列がMatrixなのだろうか。メルボルンの4×8コマのグリッドは、4行8列の行列にも見えてくる。この意味で都市のグリッドはMatrixなのである。その上に建築が建ち上がるべき母体なのである。線形代数で学んだことと思うが、1次元の配列をベクトルという。配列の配列、つまり2次元の配列のことを行列という。そして、配列の配列の配列のことをテンソルという。3次元あるいは、それ以上の配列がテンソルである。いま、世界中のエンジニアが機械学習や人工知能(AI)の技術をめぐってしのぎを削っている。その中でグーグル社の開発したライブラリ(コンピュータ・プログラムの集合体)の名前がTensorFlow、つまり「テンソルの流れ」である。テンソルの計算ライブラリがAIの基礎を担っている。都市が建築の母体であるのなら、テンソルが人工知能の母体ということになるのだろうか。
イギリス人がアメリカに入植したのはオーストラリアに先んじること約1世紀、17世紀末のことである。図は1811年のニューヨークの地図である(図は右側が北の方角である)。マンハッタン島を南北に走るアベニューと呼ばれる大通り、それと直交する東西方向のストリート、直交グリッドを斜めに貫くブロードウェイ、セントラル・パーク、現在のニューヨークの骨格がすでに出来上がっている。このグリッド状の街区の上に超高層ビルが林立し、現在のスカイラインが形成される。
1980年代、パーソナル・コンピュータの黎明期にあって一世を風靡したゲーム・ソフトがSimCityである。SimCityはCity Simulatorの略だと思うが、このゲームで遊んでみれば、アメリカやオーストラリアの都市の作られ方が手に取るように理解される。まず、ほぼ平坦な大地が初期条件としてある。海や川に接した大地が森林で覆われている。このゲームのプレーヤーは建築家であるのだが、彼が最初にする仕事は大地の上に道路網を敷き、つまり、グリッド状の街区を設定し、大地の一角に発電所と給水ポンプを配置することである。つぎに建築家は用途地域を設定する。つまり、それぞれの街区に住居地域、商業地域、工業地域の区分を指定する。ここでは、個々の建物の設計はプレーヤー=建築家の仕事ではない。用途地域を設定すれば建物は勝手に建ってゆく。都市の発展、すなわち人口の増加にあわせて消防署や警察署、市庁舎、裁判所、病院、学校などの公共建築を配置してゆく。
大平原の一角に新しい都市を建設することを考えよう。まず、グリッド状の街区を設定する。土地の起伏や川などの自然の障害は整形のグリッドを歪めるから、できるだけ平坦な土地を選ぶ。その上で、それぞれの街区の使われ方を規定する。これはゾーニングと呼ばれる。ゾーンごとに用途を設定するからである。そして、それぞれの街区に建物が建設されてゆく。これはメルボルンやニューヨークのような植民地都市の建設において極めて一般的な手順であったろう。ここで注意しておきたいのは「道」の機能である。道の本来の機能は、離れた2点を結ぶことである。ところが街区の形成において、道は同時に、領域を区画する機能を果たしている。つまり「結ぶ道」と「区画する道」である。これは図学の授業の第1回目で強調したことでもあるが、1本の直線は離れた2点を結ぶことで描かれるが、同時に、その直線は平面を2つの領域に分割する、ということを示している。紙の上に鉛筆で1本の直線をスケッチするとき、それは離れた2点を結ぶものであると同時に、紙という領域を2つに分割するものなのだと意識しなければならない。街区を構成する道は、その上を人が歩き、車が走ることになるから、その計画は交通計画とよばれる。それに対し、道で囲まれた街区の用途を指定することを土地利用計画という。交通計画はネットワークの計画であるし、土地利用計画はゾーニングの計画である。前者は直線であるから1次元であるし、後者は面であるから2次元である。ネットワークとゾーニング、この2つが都市計画の主要なオペレーションであるのだ。ネットワークとゾーニングが主要な手段であるのは単体の建物の計画、すなわち建築計画においても変わらない。ただ、都市のグリッドは、建築においては高さを与えられ、3次元の立体格子に置き換えられる。立体格子の内部の空間ゾーニングと3次元的なネットワークの構築が建築計画での主要な手法となる。建築の設計では、前者はゾーニングあるいは部屋の配置、後者は動線計画、すなわち廊下や階段やエレベータの計画ということになる。
ここまでメルボルンやニューヨークを例にしてきたが、ここで東京、すなわち江戸の成り立ちを見てみよう。図は天保14年(1843年)の古地図である。江戸城を中心として長方形の街区が同心円状に回転しながらひろがってゆく。城の東側には現在の銀座や神田といったエリアが拡がり、町人地区、つまり下町を形成している。これに対し城の北・西・南側には武家屋敷が広がっている。山の手と呼ばれるエリアである。これを下敷きに明治時代末期から大正時代にかけて近代都市に作り替えるべく都市計画のプランが作られた。それが市区改正全図(1890年)である。これを見ると道路は1等から5等まで区分されて、それぞれの幅員に拡充され、各部に公園、鉄道駅、市場(魚・鳥・獣・青物)、墓地・火葬場が配置される計画になっている。江戸の町割りを下敷きにして、道路網のヒエラルキーを明確にすることに焦点が当てられていたことが分かる。つまり、都市に構造と秩序を与えようとしたのだと理解される。参考に静岡市の成り立ちも見てみよう。駿府の城下町は、室町時代から戦国時代にかけて今川氏により、江戸時代には徳川家康により整備された。駿府城を中心に、南側に町人町のグリッド、東・北・西側に武家屋敷が展開するありかたは、江戸の町の構成とよく似ている。
もう一度、江戸の古地図に戻ろう。全体は、町人町や武家屋敷を構成する限定的で局所的なグリッドの寄せ集めにみえる。そして、それらが城を中心として、緩やかな同心円を描くように配置される。一見すると、秩序があるというよりは、かなり混乱しているように見える。これは何故だろうか。実は、2次元の平らな地図だけ見ていてはわからないが、東京はかなり起伏に富んだ町である。多くの川も流れている。これらの自然の地形が規則的な直交グリッドの展開を歪めている。
少し横道にそれるが、地形の扱いについて考えてみよう。図は東京と袋井市の等高線をAutoCAD上で作画したものだ。建築の設計プロジェクトが開始されるときに、真っ先に必要なのは、周辺の高低差も含めた敷地図の作成である。とりわけ、敷地周辺も含めた等高線の図面が必要である。ところで現在、カーナビのシステムで用いられているように、日本中のあらゆる地点の経度・緯度・標高のデータが国土地理院より公開されている。それを利用して日本中のあらゆる地点の等高線を描くプログラムが埼玉大学の谷研究室よりWeb等高線メーカーとして公開されている。Web等高線メーカーは作成した等高線の情報をxml形式というテクスト・ファイルで出力する。そのデータをAutoCADに取り込めば、設計に利用できる等高線図が作成されるであろう。しかし、ここで問題が生じる。建築の設計図は3次元直交座標系で記述されるのに対し、等高線を含む地図データは経度・緯度・標高で記述されている。経度・緯度・標高を3次元直交座標に変換しなければならない。調べてみると、その変換プログラムは難しい数式を用いることが分かる。考えてみれば当たり前だが、地球は球ではなく、遠心力により赤道部分がわずかに膨らんだ楕円面である。その楕円面の局所的な一部を、直交座標に変換するプログラムが必要になるのである。この問題は数学者のガウスやクルーガーが取り組んでいたようだ。ここでは、この変換アルゴリズムの詳細には立ち入らない。ここに載せた図は、国土地理院のホームページに載せられていた論文を参考にして、AutoCADで等高線が描けるように試みたものだ。現在では、おそらくグーグル社のライブラリを使えば、この変換はより簡単に行えると思われる。
こうしてみると、東京はかなり細かい起伏に富んでいることが分かる。袋井では、周辺の丘陵地帯は東京より標高が高いが、平坦な土地は東京よりかなり広い。東京の山の手には平坦な土地がほとんど見受けられない。これではメルボルンのように整形のグリッドで大地を覆うのは困難であろう。江戸が局所的なグリッドの集積にならざるを得ない理由の一つがここにあるのだろう。もうひとつの理由は、城を中心とした緩やかな同心円状の配置ということに帰せられるだろう。
1980年代後半に磯崎新アトリエにコンピュータが導入された。それまでは3×6サイズ(90cm x 180cm)の大きな製図版に平行定規を取り付けて、手書きで製図していた。そのような作業環境のなかにコンピュータというものが入ってきた。コンピュータとCADを使えば、どのような建築の設計が可能になるのか。私は、コンピュータを駆使することで、今までになかったような全く新しい空間が実現するのではないかと感じていた。オーストラリアのなだらかに起伏する山並みの風景が頭にあったから、曲線や曲面をコンピュータ上で再現できないものかと考えていた。今でこそ多くのCADやモデラーで曲面をモデリングすることができるが、当時のAutoCADにはその機能は入っていなかった。書店で立ち読みをしていたとき、G. Farinという研究者の書いた「CAGDのための曲線・曲面理論」という書籍の日本語訳が目に留まった。CAGDとはComputer Aided Geometric Designの略で、幾何学的側面をより重視したCADという意味であろう。今日ではあまり用いられない言葉である。その書籍には、曲線・曲面をコンピュータで扱うための理論的な解説とともにspline曲面上の点の座標を求めるC言語によるアルゴリズムが記述されていた。当時の、そして今でも、AutoCADのアプリケーション・インターフェイスは人工知能開発用のLisp言語である。私はFarinのC言語によるspline曲面生成アルゴリズムをLisp言語で書き直しした。それはそれほど難しい作業ではなかった。こうして日々使っているAutoCADで曲面が自由に描けるようになった。これを用いれば、屋根などの建物の一部だけでなく、地形そのものをモデリング、すなわちデザインの対象とすることができるようになるわけだ。
上の図は1998年の北京・国家大劇院のコンペ案のスタディである。国家大劇院は天安門広場に近接した敷地に建つ国家の威信をかけたコンペだった。オペラハウス、コンサートホール、劇場からなる複合体だった。残念ながら私たちの案は一等にはならなかった。フランスのポール・アンドリューの卵型の案が選ばれて、現在、それが建っている。その後、様々なコンペでspline曲面を使ったデザインを提案したが、なかなか実現しなかった。spline曲面を使った曲面が実現したのは2007年竣工の北方町生涯学習センターの大屋根である。構造は佐々木睦郎氏である。そのころまでには佐々木先生と私たちは北京も含めて何度か曲面のデザインにトライし落選している。当初は、私たちが提示する曲面のモデルに作用する応力の分布をヴィジュアライズし、応力の大きい部分には補強を考える、というのが構造設計の基本方針だった。しかし、生涯学習センターの屋根では、応力の分布が最適化されるように曲面の形状を微調整するということが行われた。つまり、建物の最終形状の決定が構造エンジニアに委ねられたわけである。
シビル・モホリ・ナギはMatrix of Manの中で、都市の形態を直角パターンと同心円パターンに分類している。メルボルンやニューヨークはまぎれもなき直角パターンである。シビル・モホリ・ナギは、同心円パターンは地形対応パターンの発展形であると捉えている。
確かに、こんもりと盛り上がった山か丘をイメージして、その等高線を描いたとすると、それは歪んだ同心円になるであろう。その等高線に沿って、つまり同じ標高で道路を計画すれば、それは同心円を描くであろう。だから、地形対応パターンとはイタリアのアッシジのような山岳都市を思い描けばよいだろう。中心は、一番高い標高をもち、通常は、城であったり教会であったり聖なる領域であろう。東京や静岡のような城を中心とした緩やかな同心円パターンも地形対応パターンの一種であろう。図はウォルター・バーリー・グリフィンによるオーストラリアの首都キャンベラのマスタープランと上空からの写真である。放射状の道路と同心円状の道路とを組み合わせてマスタープランが作られている。マスタープランからは、その放射状道路の焦点が7ヵ所読み取れるが、その中で最大の中心には国会議事堂が設置されている。国会議事堂はロマルド・ジョゴラの設計による。私はメルボルン大学在籍中に、この国会議事堂の工事現場を見学し、チーフ・アーキテクトから建物の説明を受けたことがある。ロマルド・ジョゴラはこの建物のために現地に数十名のアーキテクトを集めた設計事務所を設立し、設計と工事監理を遂行していた。
キャンベラのマスタープランにはエベネザー・ハワードの「明日の田園都市」の思想の影響が強く感じられる。ハワードの田園都市構想の背景には、産業革命後、人口が集中し、環境が悪化したロンドンの姿があった。ハワードの計画は、中心都市の周囲に人口3万人程度のサテライト都市を配置してゆくというものだった。その小型の都市は職住近接の、自給自足のユートピアで、中心都市とはグリーンベルトによって隔離されていた。メルボルンも田園都市の思想を多分に受け継いでいる。20世紀に入ると、自動車交通の発達により郊外には多数のサテライト都市が生まれた。それらが自給自足のユートピアであったかどうかは疑問であるが、中心都市であるシティと広大なグリーンベルトで隔離されていた。現在、そのグリーンベルトはボタニカル・ガーデン(植物園)であったり、パブリックなゴルフ場であったり、メルボルン大学のキャンパスであったりする。
図は1989年竣工のボンド大学である。シドニーから北に約900km、クイーンズランド州サーファーズ・パラダイスに位置する。マスタープランはメルボルンの建築家ダリル・ジャクソンの事務所がコンペで勝ち取った。オーストラリア初の私立大学である。磯崎アトリエはマスタープランの中心に位置する図書館・人文学部棟・管理棟の設計を委託された。私たちの案は、アライバル・コート(到着広場)から円形の湖に至るキャンパスの軸線の真上にブリッジを渡してその上に管理棟をのせるというアイデアだった。ブリッジ(橋)はシンボリックなゲート(門)でもある。ダリル・ジャクソンのマスタープランに見られるアライバル・コートからの放射状の軸線に、キャンベラのマスタープランや、ひいては田園都市の影響を感じることができるだろう。なお、マスタープランでの放射状の軸線の先は湖に突き出た円形の半島になっている。
「軸」を使って複数の建物の連携を強化する、あるいは建物の配置に秩序を与える、あるいはシステムに「構造」を与える。この手法はいつから用いられてきたのであろうか。図はエドモンド・ベーコンによるバロック・ローマの都市構造の分析である(Edmond Bacon, “Design of Cities”, 1967)。後期ルネサンス以降、バロックとよばれる時代にローマの都市景観に構造が与えられた。それまでのカオスとも呼ばれるべき状況に構造と秩序が与えられた。それを成し遂げたのはローマ教皇シクスタスV世である。シクスタスV世はオベリスク・泉・広場、この3点セットを用いてローマを視覚的に構造化した。サン・ピエトロ寺院のような公共建築の前面には広場が計画された。広場の中央にはエジプトから略奪されたオベリスク(尖塔)が据え置かれる。オベリスクの足元には泉が配置される。広場の中央にそびえたつオベリスク、その背後の堂々とした大聖堂。この組み合わせのランドマークが市内各所にちりばめられる。それらはローマの都市景観に視覚的な連続感を生み出す。こうして、混乱した都市景観にある種の構造が与えられる。これは点(中心)と軸(直線)による現代の「拠点開発」という都市計画手法に通じるものがある。シクスタスV世の場合、その拠点開発の手法は、オベリスク・泉・広場の3点セットであったわけであるが。
では、シクスタスV世によって構造化がなしとげられる以前のローマはどのような姿であったのだろうか。18世紀の版画家・建築家であるジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージによる古代ローマの復元図カンポ・マルツィオが残っている。その時代は建築史的には新古典主義の時代で、建築の規範を古代ギリシャやローマに求める運動が起きていた。そのような時代を背景として、ピラネージはローマの復元に取り組んだわけだ。しかし、部分的には実測されたものの、大部分は彼の空想で補った復元図が描かれた。それがカンポ・マルツィオである。この空想の復元図を観ると不思議な感覚におそわれる。そこには様々な幾何学的な形態をもった建物がランダムに寄せ集められている。建物どうしが戯れているといった印象である。道らしい道は見当たらない。しいて言えば、建物の隙間が道である。われわれには馴染みが深い、オーストラリアやアメリカの新都市の建設にみられる道と街区と建物の関係が、ここにはない。古代ローマの復元模型も載せておこう。この模型写真は建築史家コーリン・ロウ(1920-1999)の著作「コラージュ・シティ」の巻頭に掲載されている。あたかも幾何学的な形状をもった建物群がランダムに寄せ集められた古代ローマこそコラージュ・シティの典型的な例である、と主張しているかのようである。
コーリン・ロウは「コラージュ・シティ」のなかで都市とは本来ブリコラージュなのではないかと述べている。「コラージュ・シティ」は難解な書であるが、基本的にはコルビュジェ以降の近代都市計画にたいする批判の書である。都市は近代の都市計画家たちが主張するような、計画され建設されるものではなくて、ブリコラージュされるものなのだと言っているわけだ。ではブリコラージュとはなにか。それはフランス語で「寄せ集めて自分で作る」という意味だ。理論や設計図に基づいてモノを作ることをエンジニアリングとするなら、それとは対照的に、すでにあるものを寄せ集めて、試行錯誤を繰り返しながら最終形を得る、というのがブリコラージュである。
コラージュ・シティが出版されたのは1978年であるが、1992年出版の日本語版への序のなかで著者は「テキストを書いてからすでに19年の歳月が流れ・・・」と記している。だから、コーリン・ロウが思索をまとめたのは1973年頃のことであろう。天才プログラマであるケン・トンプソンとデニス・リッチーによってUNIXオペレーティング・システムが作られたのが1969年。UNIXが広範に使われ出したのが70年代末。パーソナル・コンピュータが広く世界に普及したのが1981年のIBM PCの出現以降である。これらのコンピュータの歴史を顧みれば、コラージュ・シティが書かれた1973年の段階では、建築設計や都市計画の現場にコンピュータが入り込む余地はなかったはずだ。しかしながら、現在の私たちはブリコラージュの思想さえコンピュータをつかってシミュレートすることが可能であるし、それをエンジニアリングと呼ぶこともできるであろう。
図はコルビュジェの「ローマの教訓」である。1923年の「建築をめざして」の中におさめられたエッセイのひとつである。コルビュジェは都市としてのローマに概して批判的である。古いものと新しいもの、良いものと悪いものが、ごちゃごちゃに混在しカオス的な状況を呈していると言っている。コーリン・ロウの言葉で言えば、ローマはブリコラージュの産物であるからだ。パリも似たような状況である。ヴォアザン計画はコルビュジェのパリ改造計画である。そこではパリの古い町並みは徹底的に破壊され、幅広い直線状の街路と高層ビルが林立する都市景観が提案されている。
図は丹下健三の「東京計画1960」である。東京計画は東京湾上で東京と千葉県の木更津を結ぶ海上都市の計画である。8の字状の高速道路を鎖のように連結した交通計画は黒川紀章が担当している。8の字の高速道路の内部に建ち上がるオフィス・ビル群、高速道路の軸線から直角方向に延びた無数の枝に、たわわに実る果実のような集合住居群、これらの建物の設計は磯崎新と神谷宏治の担当である。「都市軸発展の方向性」と題されたスケッチをみると、8の字を連結して得られる高速道路の計画は木更津とは反対の西の方角に延々と伸ばされ、富士の先まで到達している。静岡がターゲットであるのだろうか。その頃、東海道メガロポリスと言って、東京から大阪までリニアな一連の都市で連結しようとする構想があった。
このような近代の都市計画思潮隆盛のときにあって、コルビュジェのチャンディガールの計画や丹下健三の東京計画を厳しく批判したのが、クリストファー・アレグザンダーの「都市はツリーではない」(1965)である。たしかに、東京計画を見るとツリー(樹)そのものである。中心軸をなす高速道路は幹あるいは背骨(スパイン)であるし、そこから無数の枝が派生し、葉や果物のごとく建物が張り付いている。思考のプロセスがそのままツリー構造という形になって出現するとき、計画の強さを感じとることができるが、これは現実の都市ではないと思われるだろう。アレグザンダーはこのような「人工の都市にはかけがえのない何か本質が欠けている」と指摘する。アレグザンダーは数学者でもあるから、それを集合論の概念を使って説明する。そしてツリー構造にたいするものとして、セミ・ラティス構造を提唱する。ツリー構造では、1つの幹から多数の枝が派生して末端の葉にいたる。全体としては、階層構造のはっきりしたピラミッドのような構成である。ある構成要素から枝は複数出すことができるが、さかのぼれる幹は1本だけである。これにたいして、セミ・ラティス構造は複数の幹を経由してさかのぼることができる。構成要素間の関係が多様で錯綜しているわけである。そして、「計画された都市」がツリー構造をもっているのにたいし、「自然都市」はセミ・ラティス構造であるのだと主張する。
このアレグザンダーの説明は、現代のわれわれにとって、コンピュータにおけるツリー構造を予備知識として学んでおけば、理解しやすい。コンピュータでは、ある情報のかたまり、これはデータとかプログラムとかオブジェクトとか呼ばれるが、それらはフラットなメモリ空間にツリー構造を構成して配置される。オブジェクトにはメモリ上での自分自身の番地(アドレス)が付与されている。さらに、関連する別のオブジェクトの番地もデータとして保持される。この仕組みにより関連するオブジェクトが互いにリンクされてゆく。これを連結リストという。長い列車をイメージすればよいだろう。ここで、あるオブジェクトについてリンクする相手を2つ以上持てば、単純な連結リストではなく、リストは枝分かれして、ツリー構造が構築される。こうして例えば、ハードディスクのなかのファイルはツリー構造で管理される。それはディレクトリと呼ばれる。さらに、全世界のコンピュータをつないだインターネットもドット(.)を頂点としたツリー構造である。例えば、sist.ac.lcは正確にはsist.ac.lc.であって、.->jp->ac->sist->wwwとたどることのできるツリー構造の末端の葉である。ドット(.)は幹であり、ルート(根)と呼ばれる。
設計という観点から興味深いのは、インターネットは徹底したツリー構造でありながら、かなり「自然」にみえることである。インターネットはセミ・ラティス構造ではない。インターネットがセミ・ラティス構造であるなら、経路をさかのぼって特定のサイトに到達することができない。世界では日々、新しいウェブ・サイトが生まれ、消滅している。ハードディスクの中でも日々、新しいファイルが作成され、また削除されている。これらのことは、ファイル・システムやインターネットが、全体が伸び縮みするようなシステムとして設計されていることを示している。それを徹底したツリー構造でありながら実現している。個々のウェブ・サイトを単体の建築に見立てれば、インターネットは都市ということになるだろう。ツリー構造をもちながらも、全体の輪郭が常に伸び縮みして、生命をもったような都市を計画し設計することはできないのであろうか。
図はクリストファー・アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」の中の挿絵の1枚である。アレグザンダーは様々なパターンを言語のごとく配列することで都市が計画され得ると考えている。だから「パタン・ランゲージ」には「環境設計の手引き」という副題がついている。現実の都市から抽出した多数のパターンが図解説明されている。それらを紡ぎ合わせれば都市が設計される。つまり、都市計画のマニュアル本なのである。この図はその中からの1枚である。アレグザンダーがイメージする都市の姿がよく表れている。古代ローマの復元模型、つまりコラージュ・シティに似ていなくもない。アレグザンダーは5000~10000人規模のコミュニティを中心に考える。都市とは、そのようなコミュニティがたくさん集まったものだ。写真はイソギンチャクの群生する姿である。細胞の顕微鏡写真でもよいのだが、核をもった個体がひしめき合って群生している。都市とは小さなコミュニティが群生しているようなものとして捉えられるべきではないだろうか。
核をもった個体が密集して群をなしている姿は幾何学的にはボロノイ図を連想させる。ボロノイ図は「なわばりの幾何学」として知られる。多数の点が与えられたとき、近接する2点の垂直2等分線を描いてゆけば、凸多角形の領域として各点の「なわばり」を示すことができる。作図のアルゴリズムは単純であるが、これをCAD上で実装するのはやさしくはない。特異な初期条件にたいする処理が難しいからである。しかし、コンピュータ言語Pythonには与えられた母点の集合からボロノイ点を計算するライブラリが付属している。それを使ってボロノイ点を計算し、計算結果をCADに取り込めばよい。この図を応用すれば、例えば、都市の中でコンビニの出店計画を考えることができる。それぞれのコンビニは商圏、つまりなわばりを持っている。コミュニティの核となるのはコンビニだけではない。小学校やコミュニティ・センターこそが5000~10000人規模のコミュニティの核としてふさわしい。近隣住区という考えは1920年代のアメリカにさかのぼる。地域社会のまちづくりには現代的な視点で近隣住区を再構築することが必要であろう。
東京計画1960に戻ろう。図は磯崎新によるオフィス街のスケッチである。太い角状のコアが一定間隔で立ち上がり、空中をオフィスのブロックが繋いでいる。写真は同じく磯崎新による「空中都市」と題された計画である。場所は新宿に設定されている。角柱のコアは円柱に置き換えられている。
東京計画から38年後の1998年、磯崎新は「海市計画」を発表する。これは中国のマカオの沖合に、海を埋め立てて、島を作るという計画である。おむすび型の人口島が陸地から2本の橋で連結される。島の内部の構成は東京計画1960の影響が色濃く感じられる。中央のスパインにそってコンベンション施設やオフィス街が配置される。その軸線から直交方向に集合住居群が展開してゆく。西側の集合住居は客家という中国福建省地方に現存する円形リング状の住居形式を参照している。東側の集合住居は北京の伝統的な住居である四合院をモデルにしている。いずれも中庭のある住居形式で、それを現代風にアレンジしてデザインし直している。中央の軸から直交方向に枝が伸びてゆき、そこに集合住宅が張り付いている施設配置のあり方は、東京計画1960での考え方と基本的に同じである。
私は、このリアルなプロジェクトとしての「海市計画」には関わっていなかった。しかし、1998年にこの計画が頓挫し、この企画を題材にした都市計画の展覧会が催されたとき、「インターネット島」を担当することになった。そのころ、Windows95の公開にともなってインターネットが爆発的に普及し出していた。そのインターネットを使って不特定多数の人々が町づくりに参加するという企画である。それを可能にするためのインフラストラクチャーを考えなければならなかった。インフラストラクチャーはMatrix(母体)とも言い換えられる。インターネット島であるから、Matrixはインター・ネット=網である。さまざまな網、歩行者・車・舟・自転車のネットワーク、で島を覆うことを考えた。ではどうやって網をCAD上で作図するのか。ロスアンジェルス現代美術館でみたジャクソン・ポロックの抽象画が思い出される。そのような網をCADで再現するにはどうしたらよいか。いろいろ考えてみたが、結局、ネットワークをつくるということは、多数の点があったとき、それぞれの点について、結び付く相手を決めるということではないかと思った。そのとき、相手を決める判断基準は相手との距離にすればよい。つまり、距離の短い順に結び付く相手の候補とすればよいわけだ。ただ、あらたなリンクが既存のリンクと交差する場合は、そのリンクは破棄するようにした。そして、1つの点から最大5ヵ所のリンクを形成するように考えた。図は、この手順をプログラム化してAutoCADで描いたものである。あとは、それぞれのリンクは単なる線分であるから、それらに幅と厚みを与えてレンダリングすればよい。初期値のランダムな点の数を調整することで、様々な密度のネットワークが描かれる。それらを水路・自動車路・歩行者路・自転車路などに割り当てて、重層化したもので島を覆う。これで島のインフラが完成する。ここでは、それまでの「中心」とか「軸」といった手法を徹底的に排除したいと考えた。それらに代わるものが「網」なのだ。
私が関わったもうひとつの町づくりといえるプロジェクトは岐阜県の県営北方住宅の建て替え事業だった。その経緯については「Bazaar方式の都市計画をめざして」で詳しく解説したので、そちらを参照してほしい。1994年から2006年まで12年にわたるプロジェクトであった。南ブロック430戸、北ブロック620戸の建て替え計画だった。計1050戸の住宅に3~4人家族が住むと想定すると、団地全体の人口は約3000~4000人ということになる。北方町の人口が当時、約17000人である。町民の5人に1人以上が、この団地に住んでいることになる。これは紛れもない都市計画プロジェクトである。これに対する私たちの対応は、多数の建築家の協働でひとつの環境を作り上げるということだった。私たちはインフラ=Matrixの設計に徹し、多数の建築家を呼び込んで、そのインフラの上に一つ一つの住宅を設計してもらった。私たちの作ったインフラは、高層化し3次元化した「土地」とも言えるべきもので、その上で、多数の建築家が腕を振るうべき舞台であった。
では、この高層化し3次元化した「土地」は、具体的にはどのように作るのであろうか。それはメガ・ストラクチャーという技術をもちいることになる。鉄筋コンクリートや鉄骨を使った柱梁のフレームを、通常よりひとまわり大きなスパンで組んだ構造体のことを指している。平面的な柱スパンだけでなく、鉛直方向も梁と梁の間隔を大きくする。こうして、構造体が通常よりひとまわり大きなスパンに集約される。これをメガ・ストラクチャーと呼んでいる。図は日本の集合住宅の歴史で記念碑的な作品とされる晴海高層アパートである。設計は前川國男で竣工は1958年である。写真で明らかであるが、梁は3層おきに設置されている。中間の床は構造的には2次的な部材である。この構造を担当したのが当時、前川事務所に在籍していた木村俊彦氏(1926-2009)である。私が磯崎アトリエに在籍している間、木村先生には建築の構造について、さまざま教えていただいた。図はドナウシティ・ツインタワーとJR上野駅計画である。いずれも構造設計は木村先生で、それぞれメガ・ストラクチャーの提案である。ドナウシティ・ツインタワーはコンペで当選したものの、ウイーン市の事情により建設されなかった。JR上野駅は7年近くの期間にわたり、検討を繰り返したが、線路上空に超高層ビルを建てることは断念された。岐阜の北方住宅北ブロックでは、プレストレスを入れたプレキャスト・コンクリート部材でメガ・ストラクチャーが構成された。あわせて基礎には免震装置が組み込まれた。この構造のインフラを設計したのは、木村先生の弟子にあたる佐々木睦郎氏である。
前川國男が晴海高層アパートを設計した時、コルビュジェのユニテ・ダビタシオン(1945-1952)が参照されたに違いない。ユニテ・ダビタシオンでは、単一の大きな建物に「都市」を組み込むことが設計のテーマになっている。18階建て、板状のブロックで、全337戸、最大1600人が居住する集合住宅である。断面は、メゾネットの住戸をたがい違いに組み合わせて構成されている。屋上には保育園や体育館、プールがあり、中間の7・8階には店舗や郵便局がある。建物全体が1つの都市であるかのように設計されている。真に生き生きとした環境を作るためには、住戸だけでなく様々な施設が混在していなければならない。残念ながら、これは私たちが岐阜では、完全には、なし得なかったことである。北ブロックには生涯学習センターという公共施設が併設され、南ブロックには集会所が建てられたが、商業施設を建設プログラムに含めることはできなかった。住民は車で数ブロック離れた郊外型のショッピング・センターに買い出しに行かねばならない。集合住宅を計画するということは都市を計画するということだ。住宅以外のさまざまな都市機能が包含されてこそ、真に生き生きとした環境が形成される。最近の事例では、デンマークの建築家ビャルケ・インゲルスのグループが設計した「8ハウス」(2012)が興味深い。
北方住宅の北ブロックは単純な「ロの字型」のプランであったが、この8ハウスはその名の通り「8の字型」をしている。中庭を10階建て、高層・板状の住棟で取り囲む形式は同じである。この8ハウスはコペンハーゲンの郊外に位置している。住居セクターが61,000m2、商業施設とオフィスが10,000m2の複合建築である。民間資本の開発であることから用途の複合化が、公営住宅の開発と比較した場合、むしろ容易であったのかもしれない。設計者の説明によれば、建物の中に道路もあり広場もありで、施設全体が一つの都市として機能することが図られている。オフィスも建設プログラムに取り込むことで職住近接が図られている。インゲルス氏にインタビューしたサイエンス・ライターの吉成真由美氏はBIGのデザインを次のように評している。
「自分のデザインを主張するというよりも、環境への配慮や使う人たちの意見をすべて取り入れることに腐心し、そのデザイン上のチャレンジに向き合うことで、これまでになかったような新しいアイデアを生んでいこうとするオープンでインクルーシブ(包含する、許容する、招き入れる)な態度が、時代精神によく合っているのかもしれない。」
オープンでインクルーシブ。この姿勢こそが、これからの集合住宅の設計、ひいては地区や都市の計画に最も求められている。